夜。離宮にて。
細く長く延びる廊下に漂う湿った空気が、闇と共に厚く圧し掛かっていた。燭台を持った侍女が行き来していたが、その灯も消えかかるほどの湿り気を帯びていた。
「ご苦労様でございます。此度は急に任を仰せつかったと聞きました。大変でしたね」
廊下の中央にある大きな扉の前で、一人の侍女が男に話しかけている。男はトリコルヌに手をかけ、軽くお辞儀をした。侍女はそのまま部屋に入ると、何事か用を済ませ再び姿を現した。そして男に一礼すると、元来たほうへと去っていった。少しかき回された空気も、侍女が廊下の角を曲がらぬうちにまた動きを止め、重く圧し掛かりはじめた。
そのまましばしの時が過ぎ、ふと男が口を開いた。
「そこに、いらっしゃるんですか」
彼が背にしている扉の向こうからも、声がした。
「よくわかりましたね」
「なんとなくそんな気がしました。私に夜警を命じておいて、あなたがそのまま眠りにつくわけがないと」
「えへへ、お見通しですか」
「はい、お見通しですよ」
「では私が何を求めているか、おわかりですか?」
「そうですねぇ、この扉を蹴破って、抱きに行くのを待っておられると」
「無礼者、なんということを。そんなことしたら、あなた解任どころじゃ済みませんよ」
「それは大変ですな。でももし、死を賜ってもそちらに行きたいと申し上げたらどうします?」
「・・・死んでもらっては困ります。故にそのような乱暴は控えていただきたいですわ」
「かしこまりました。・・・では、何かお話をいたしましょうか」
「それがいいですわ。何か興味深いお話をしていただけないかしら」
「では・・・欲求の互換性についてお話をしましょうか」
彼はまわりに人の姿が無いのを確認すると、話を始めた。
人間の本能的、根源的な欲求として、「食欲」「性欲」「睡眠欲」があります。これは生命活動において欠かすことのできない欲(というより必須なもの)ですが、時と場合によってこれらは互換性が効くのではないかということです。これを仮に「平行互換」と呼ぶことにします。
例えばお腹がすいたとき、寝てしまうことによって一旦その欲求を回避することができる場合があります。眠ることなく一晩中抱き合っている男女というのもいます。また実例として、ある巨漢の男性が、ダイエットのために食欲を性欲に変換する試みを行い、見事成功したという事例もあります。つまり、この3つの欲求については互換性が成り立っているのではないか、ということです。ただはじめに挙げた逆の例として、お腹がすいて眠れない、という人もいるのではないでしょうか。これは3つの欲の優位性が人によって異なることを意味しています。「睡眠欲」と「食欲」のどちらに優位性があるかによって、「空腹を睡眠で紛らす」「空腹で寝付けない」というどちらかの事象に行き着くことになります。
この「平行互換」に関連してもう1つ、「上下互換」についてお話ししましょう。「上下互換」とは、先述の3つの欲求に対し、その中で下位の欲求を以って互換できるか、ということです。難しいので例を挙げて説明します。
例えば食欲について、今あなたの目の前には、パン、酒場の小料理、豪華料理の3種類が並べられています。嗜好や興味は考えないとして、どれでも好きなものを召し上がれと言われたら、大抵の人なら豪華料理を選ぶでしょう。では目の前にあるものがパン、酒場の小料理の2種類だったらどうなるでしょう。当然小料理を選ぶことになりますが、これでも豪華料理を欲する人がいるんです。それは豪華料理、つまり上位のものを得られる立場の人間で、下位のものではその欲求が満たされない人にみられる現象です。このような人(食欲に関する下位互換ができない人)は、先述の「平行互換」において「食欲」の優位性が高いのではないかと考えています。逆に、3種類の料理が並べられている段階でも豪華料理以外を選ぶことに抵抗の無い人は、「食欲」の優位性が低いのではないか、ということです。
では、ある条件を提示しますので、その互換性を考察してみましょう。ここでは「性欲」という言葉はあまりにも直接的表現なので、「物欲」としてお話しします。
・夜中でも構わず執筆を続ける(物欲>睡眠欲)
・食事を摂る時間も惜しんで、史跡めぐりをする(物欲>食欲)
・空腹でも構わず寝ることができる(睡眠欲>食欲)
この結果、「物欲>睡眠欲>食欲」という平行互換の優位性を持っています。では次の条件を追加します。
・何を食べたいのか、はっきりとした意思を持たず、また提示された料理に不満を持たない(食欲→低)
・ベッドとソファがあればベッドで寝たい。だが無ければ丸椅子でも床でも構わない(睡眠欲→中)
・好意を抱く人に対し、共に散策を行ったり、食事をするだけでは気持ちが満たされない(物欲→高)
これを見ても、「物欲>睡眠欲>食欲」という同じ結果を導き出すことができるわけです。
「・・・どうですか、こんな話」
彼は一息ついて、扉の向こうに話しかけた。
「・・・・・・」
返答は無い。
「もう寝てしまわれたんですかね・・・」
「・・・・・・」
「・・・扉、打ち破ってもいいですか?」
「・・・ダメです」
部屋の中から声がした。
「おや、まだ起きていましたか」
「ええ、ちゃんと全部聞いていましたよ」
「そうですか。どうでしたか、この話は」
「非常に面白いと思います。どこの学者さんの研究ですの?」
「いえ、これは持論ですよ」
「それはそれは、なんと博識でいらっしゃる」
「あなたほどではありませんよ。それで、私が何を言いたいのか、お察しいただけましたか」
「どうでしょう。そこはやはり直接おっしゃったほうがよろしいのではないかと」
「そうですか・・・・・・いえ、やはりやめておきます。扉を挟んでいては欲求が満たされませんから」
「ふふ、ではその言葉はまたいずれ聞くとしましょう。そろそろ床に着きますので。くれぐれも扉は打ち破らぬように」
「わかっております。ではまた明日、おやすみなさいませ」
扉の中で足音が遠ざかるのを聞くと、彼は横にあった肘掛け椅子に座り、トリコルヌを自分の顔に被せた。
長い長い冬が終わり、春を通り越して夏を迎えたのにまた雨季に戻ったような季節の、とあるよく晴れた月曜日。
朝。青年はまぶしさで目が覚めた。顔に乗せていた帽子は床に転げ落ちている。体には薄い敷布がかけられていたせいで、軽く汗ばんでいる。反対に喉は乾ききっていた。つばを飲み込み、唇をなめる。ほのかに木の実の味がした。
ふと扉が開く音がしたので振り返ると、一人の侍女が出てくるところだった。
「おはようございます。お勤めご苦労様です」
侍女は青年に頭を下げた。青年も軽くお辞儀を返した。
「マリー様はまだお休みで?」
「今お目覚めになったところです。身支度が済み次第、こちらにお越しになられますよ」
「そうですか・・・、して、今手にしておられるのはなんですか」
彼は侍女の手にしている食器類を指して尋ねた。
「これはマリー様のお夜食です。夕べは東洋のグリーンティーと、クロモモのジャムスコーンでしたわ」
「ほほぉ・・・、ああ、すまない呼び止めてしまって」
「いえ、では失礼いたします」
侍女は軽く頭を下げると、長い廊下を去っていった。
彼は親指の腹で唇を撫でながら、窓の外の空を見上げた。雲ひとつ無い、雨上がりの五月晴れであった。
「クロモモ・・・か。いやまさか・・・なぁ」
3/3 fin